スペースシャトル打ち上げ見学の旅を終えて

山崎直子宇宙飛行士が搭乗するスペースシャトル・ディスカバリー号(STS-131)の打ち上げを観に行ってきた。既に退役が決まっているスペースシャトルにとって今回は日本人が搭乗する最後のスペースシャトルミッションとなる。筆者はこれまでスペースシャトルの打ち上げを観に行く機会がなかなかなく、このまま退役を迎えてしまうかもと思っていたのだが、今回期せずしてその機会を得ることができた。貴重な機会をくださった山崎大地さん、直子さん夫妻には本当に感謝しています。また、道中を共にしてくれた多くの方にも。みなさんのおかげで最初から最後まで、このお祭りを心底楽しむことができました。旅というそもそもが非日常のシチュエーションで、この上ないワクワク感を感じることができました。

さて、その道中日記もあげないまま、帰国してふと思ったのは、これが非日常であり続けてはいけないのではないかということ。

スペースシャトルの打ち上げは多くのスペシャルなイベントであふれていた。多くのツアーが組まれ、数時間前から見学場所で期待感を募らせ、打ち上げ直前には米国国歌が斉唱される。そしてあの閃光と轟音。文字通り、国家をあげての大イベントだ。盛り上がらないはずがない。それはそれでいいし、それだけの価値がある。

ただ、それは宇宙を舞台にした国家事業という背景があってのこと。宇宙旅行が一般化した将来を考えればどこかの段階でそうした風潮はなくなっていくと考えたほうがいい。むしろなくなるほどに一般化していくようにしたい。例えが陳腐かもしれないが、昔々、遠く(といっても国内)に旅立つ人を見送る人達が駅のホームで万歳三唱する、そんな光景を今は見なくなったように。

そのためには「宇宙に行く」という目的から、(ひたすらに地球を眺めるという滞在型の宇宙旅行も含め、)「宇宙に行って何をするか」という目的に人々の意識が移っていく必要があるのだろう。

もちろん、その意識の移行を強制的に進める必要はない。今の自分がそうであるように「宇宙に行く」という目的は現代では十分にスペシャルだ。しかし、こうした欲求が満たされていくに連れ、ニーズがどんどん高次化していくことは認識しておく必要がある。(とはいえ、宇宙に行くということ自体が現実的な目的として認識されていない現在では、逆に「宇宙に行く」だけという目的が軽んじられているようなケースもあるが…)

宇宙に行く人を見送る旅を終えた今、そう実感している。

# まあ、それはそれとして、早速もう一度打ち上げを観に行きたいと考えてしまうのも現在の現実なのだけども…(汗

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